川の魚たちは今

15.川の魚の価値・社会的意義

1993年(平成5年)9月17日
●川の魚の価値●
 もう十年ほど前になりますが、夏休みを利用して私はカナダとアメリカの水産研究施設を訪ねたことがあります。それまでに読んだ文献によれば、北米では内水面(川や湖)の釣りが大変に盛んで、しかもそれが行政の手によってよく研究されているということでした。
 例えば、アメリカの水産学会で発行している学術雑誌には「釣り(遊漁)」に関する論文がたくさん掲載されていますが、これは日本ではまず考えられないことでした。
 日本では、水産といえばすなわち「漁業」を意味します。しかし、アメリカでは水産を「漁業」と「遊魚」に分け、その両方について盛んな研究が行われていたのです。
 私はレンタカーで各地の研究所やふ化場を巡り、研究者と意見交換を行うとともに、これらの施設を見学しました。そして、その素晴らしさにびっくりしました。今でこそ日本の水産研究施設も相当のレベルになりましたが、当時の私にとってはコンピューター制御による飼育水の調節システムや自動給餌機などはとてもうらやましく感じられたものです。

●社会的意義●

 こうした旅の中で、もう一つ私の目を引いたのは、カナダのあるふ化場でみた見学者用パネルの説明文でした。それは「釣りの果たす社会的な役割」について触れたもので、内容は次の三点でした。
 一、釣り人が釣り場の周辺で行う消費活動(入漁料、釣り具、釣り餌の購入、宿泊、飲食など)は地元の雇用機会を広げ、地域経済の発展につながります。
 二、釣りは大人たちにとっては、毎日の仕事における精神の緊張をやわらげ、新たな勤労の意欲を養うものです。また、子供たちにとっては、自然との触れあいを通じて豊かな情操をはぐくんでいくものです。
 三、川の魚類資源の保護・増殖を図るには、陸上も含め流域全体の自然を守っていかねばなりません。そしてこれは、住民に快適な生活環境を保障することにつながっていきます。
 考えてみればどれも当たり前のことなのですが、釣りの社会的な意義について、このように明快に言い切った例を見たのは初めてでした。
 また、旅行中に手に入れたある論文には「川の魚の価値」について面白いことが書いてありました。その中で著者は、まずお金に換算できるものとできないものの代表として「月の光」と「市民ホール」をあげます。古今を通じて、あまた詩歌にうたわれてきた月の光は、私たちの心を慰めてくれる大切なものですが、その価値はお金に換算できません。
 一方、市民ホールの建物はその財産価値を金額で出すことができます。そして、川の魚というのはこの両者の中間的な性格を持っているというのです。
 川の魚は、それを買えばキロ当たりいくらという値段をはじけます。しかし、 「精神のリフレッシュ」や「生活環境の保全」といった釣りの果たすもう一方の役割は、単純にお金で計算できるものではないのです。
 私たちの水産試験場は産業経済関連の部署に属していますが、水産業の発展にはその前提として、水を取り巻く「生態系の保全」が不可欠です。水が汚れ、川の自然が破壊された結果、魚が減ってしまったのは、この連載で再三指摘してきたとおりです。今後はこうしたお金に換算できない分野の研究にも、私たちは力を注いでいかねばならないと考えています。

カナダの水産試験場写真

カナダの水産ふ化場にて

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